1994-12-01 第131回国会 衆議院 厚生委員会 第10号
○山田拓民君 日本被団協の代表理事の一人でありまして、現地長崎で被災協の事務局長をしております山田と申します。 私は、十四歳のとき、中学二年生のときに被爆しております。私は、その時刻に爆心地から三・三キロも離れております当時の長崎中学校の校舎の中にいたものですから、かすり傷一つ負っておりませんけれども、住まいは爆心地から九百メートルほどのところにありました。
○山田拓民君 日本被団協の代表理事の一人でありまして、現地長崎で被災協の事務局長をしております山田と申します。 私は、十四歳のとき、中学二年生のときに被爆しております。私は、その時刻に爆心地から三・三キロも離れております当時の長崎中学校の校舎の中にいたものですから、かすり傷一つ負っておりませんけれども、住まいは爆心地から九百メートルほどのところにありました。
たとえば御存じの方もあるかもしれませんが、原爆手帳友の会の西本副会長さん、あるいは原爆被災協の役員の非常な高齢の方々が、私たちに対して、もうこれではがまんできないということで何人かお入りになりました。私は外で傍聴したわけですけれども、そういう事実がございました。 それから、私たちは、小沢政務次官の非常に好意的なはからいで何名か、じゃ会見しようということを認めていただきました。